冷たい

昨年亡くなった叔母の看護のときの話をしていたときに、それは自分の親じゃないからできたんじゃないか、と言われた。衰えたり、吐いたり、まあトイレのことなんかはある程度ひとごとだからできたんじゃないのか?と。
そんなこと考えてもみなかったので、結構ショックだった。そうか、そうなのかも。では自分の親だったら?
私は出来る気がするのだ。親の嘔吐物を別に手で受け止められそうな気がする。
でも確かにそれは親愛の情というよりは、『ひとごと』感がなせるわざなのかも。ああ、なんて自分は冷たい人間なんだろう。自分の冷たさについては、昔から自覚はあったけれどもあまり直視しないで今日まで来ている。でも覗いたら深い闇だ、きっと。ああ、目をそむけてうかうか生きたい。