国立近代美術館で「いみありげなしみ」

建築はどこにあるの?と「いみありげなしみ」を。
いみありげなしみ、は所蔵作品展示の方の企画。いつも密かにこの小さな展示を楽しみにしているのだけれど、今回のタイトルもなんだかとっても期待できそうな感じ。

「しみ」がテーマ、というだけでもなんだかいわくありげ。アートなそして文学な香り。
作品といえば、直球のシミ、榎倉康二の版画。これは展覧会のテーマをみてあるかな、と思っていたので予想通り。それにしても、布にしみがついていることは想像力をたきたてる、不思議な魅力をもっている。

牛腸茂雄ロールシャッハ作品にも、ざらりとした特別な空気を感じるし、なんともいい企画。

しみ、は、時間を引きずっている。という感想を抱く。何かが起こった時(シミの原因となる何らかの事件、漏れ、接触)が保存されていること、そしてその時点から現在まで続く存在。


いろいろくだらない考えを巡らせながら、せっかく来たので企画展示に「建築はどこにあるの?」を。

菊地宏の作品が面白い。模型と光源とカメラでの表現。光と影が交代する時である、夕暮れや夜明け、もしくは季節や時代のうつろい。どこか懐かしいその光と影の境界領域の郷愁に、新鮮な面白さが。限られたスペースでの、壮大な空間表現。

そして、しみの展示で思っていた時間、というものについてまた考える。影は今という事象が見せる空間との接点。シミは時間の影か。

まあまとまらないけど、楽しい時間。



他の作品も興味深いものが。
内藤廣のレーザーのラインを使った作品は、美しい人と空間の姿をみせてくれたし、
中山英之の作品は、三分の一スケールの小ささが見せてくれる広々とした世界に、きゅんとしちゃうかわいらしさと挑戦的な感じを受けるし、
中村竜治の紙の作品のボリュームに圧倒され、また動くたびに消失、出現を繰り返すスリット=向こう側、に建築の王道を想うし、
伊東豊雄の新しさ、がスペイシーな香りなことが、なんとなくノスタルジックで(なんか逆説的だけど)面白いし。
アトリエ・ワンの何があったんだ、とうような批評的なコメントにはちょっと建築家の理論好きな体質を感じたりも。

と長々書いたけれど、いい展覧会でした。