世阿弥って…

先日聴いた松岡心平先生の能についての講座。一回目は仕事で聴き逃したのだけれど二回目はちゃんときいてきました。
今回のテーマは世阿弥
超高速ですっとばす、そのマニアックトークについていくのが大変でした。面白かった〜

相変わらず、自己流にめちゃくちゃだけど、覚書。

世阿弥はとにかく天才で、たぶん稚児で、ありえないくらい創造的だったという話。

まず、なにが稀代の天才かということ。
世阿弥が日本の演劇の世界、流れをつくったといっていいこと。
日本を含む東アジアにおいて、演劇の萌芽は遅かった。
日本においては演劇と言っていいものがきちんと顕れ体系化されたのは世阿弥の功績。
文学においては源氏物語を筆頭に、日本の文化はかなり進んでいたにもかかわらず演劇については手つかずと言っていい状態であった。
それまで成熟していた文学などの文化の中身が、演劇として新しい実りとして文化の表舞台に出現することに世阿弥は多大な役割を担った。
そして彼の背負った役割は、ひとり何役もであった。
戯曲を書き、
座長(マネージメント)をして、
主演として演じ、
演劇論を論じた(風姿花伝から連なる論文たち)
※そして風姿花伝は日本初といえる生涯学習のカリキュラム。幾つでなにをしたらいい、といった体系はそれまでない考え方であった。教育学としても重要な文献。
当時、理論づけられていたものは和歌くらい。和歌という二次元の表現から、三次元、そしてライブで起こっていく演劇を論理的に実践し理論を体系化した。
すべて、道しるべのない時代。その道なき道を切り開いて進んでいった人。
上に述べたように、その当時演劇を論じたものはなかったため、ライブであるまた動きと物語、詩情などが複合的に芸術となる能(演劇)を表現する言葉すらなかった。そのため、世阿弥は言葉すら発明した。発明、実験、実現。

エピソード:足利義教に遠ざけられたとき、世阿弥に代わって取り上げられた田舎の能楽師が、世阿弥にお詫びの手紙を書いている。それには、カタカナも書けないので代筆してもらっているという一文が。つまり文盲の能楽師(猿楽師)があたりまえといっていい時代に論文を書くなどという素地がいったいどうしてできたのか。

さすがに天才としかいいようがない。
そして一方、この教養の高さから測られるのは稚児であったという説。

このころ、一般の子が教養をつけると言ったら寺院でしかあり得ない。
寺院の稚児だったと考えると、ひもとけることはおおい。

日本の演劇、文芸を考える上で男色は非常に重要。当時の男色ネットワークは政治的な関係を含む。日本の権力者はほぼ、バイセクシャルだったと言える。
藤原頼長の日記にみられるように、男色が一般的であり、同時に政治的な手法のひとつであった)

鳥羽院世期以来の長い伝統文化ともいえるこの男色の世界。
二条良基のところに13歳で連れて行かれたとき、良基に蹴鞠を褒められている。蹴鞠は当時、貴族のほかには稚児の教養であった。
またこのとき良基は世阿弥がとっても美しかったので、また連れてくるように、とこのとき連れてきた経弁に手紙を書いている。垂髪と呼ばれていた世阿弥が稚児であったと考えるのは自然なこと。

中世、稚児はかなり大きな存在であった。美しく教養高い稚児は寺同士で競い合ったり、また奪い合ったりするようなことすらあった。
稚児は当時、教育、また男色の対象としての面のほかに、
稚児文殊、稚児太子、稚児観音、といったように聖なるものととらえられていた。

比叡山の稚児の儀式につかわれる文言は、天皇即位のときに天台宗のお坊さんが授ける秘文と重なる。
ここに稚児と天皇という話が出てくる。
当時の幼い天皇、稚児化した天皇という視点。

三島由紀夫にみる少年天皇への純粋な愛。稚児化した天皇を美しいもの、若く美しい少年を愛するという思想。

足利義満はたいへんな稚児好きで、世阿弥が12歳の時に観阿弥とともに引き上げられたのも、その理由がある。
以降の義満の稚児好きは有名だけれど、当時17歳の義満にとって世阿弥は最初のお気に入り。

能の世界にみる性の逆転、倒錯的な世界は自己の体験からくるとみてもよい。

さて、義満の時代、稚児が政治的に大変力をもったが歳をとった稚児の運命はたいてい悲劇的なものであった。
ただ、力のあるものは、守護にとりたてられたり、権力をもったりと
権女
とともに
権童
と呼ばれて、大きな力をふるうこともあった。

義満は、若さ、美しさに強いこだわりをもった。この、若さと美しさに強く惹かれるメンタリティは三島に通じる。のちに金閣寺の異常な美の世界として結晶もするし、義満の美学に強く流れる『花』の概念にもつがなってくる。

さて、長くなってきたので花の話はまた次…